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『鬼頭莫宏先生』 その1

今回の「まんがのチカラ」は、『ぼくらの』『なるたる』など、独自性の強い作風がコアなまんがファンを中心に熱狂的な支持を集めている鬼頭莫宏先生です。独特の画風、構図、ビジュアルなどが織りなす唯一無二の作品はどのようにして生まれてきたのか。今、それが明らかになります。

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キレやすい少年だった? 子供時代~デビューまで

――先生の子供時代を教えてください。先生は、どんな少年だったんでしょうか?

鬼頭:たしか小学校の文集などには「キレやすい」とか「キレると怖い」とか書かれていました(笑)。

――自分で振り返ってみて「そうだったな」と?

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鬼頭:あんまり血液型で判断しては駄目なんでしょうけど、よく言われる典型的なA型気質で、こだわるものにはめちゃくちゃこだわって、自分が思ったところからズレたものは気にくわないみたいな感じがあったんですよ。

自分の狙った通りに物事が進まないとイヤなんですね。たとえば待ち合わせに1分でも遅れる人がいると、もう機嫌が悪くなるぐらいの感じでした。かなり怒りっぽかったですね。

――今は、だいぶ落ち着きましたか?

鬼頭:二十歳をすぎたくらいのころに、やっとそういうことに気がついて「これじゃ、人生面白くないかな?」と考え始めて、意図的に直すようにしました。

――子供のころは主にどんな遊びをしていましたか? インドア派でしたか? それともアウトドア派?

鬼頭:たいがい何でもやっていましたね。しょうや(メンコ)とか、ビー玉遊びとか、ボール遊びとか、幅広くやってましたよ。ただ、あまり運動は得意ではなかったので、野球のチームに入ったりとか、そういうことはなかったです。

――子供らしい遊びは一通りやっていた、と。

鬼頭:そうですね。普通の子がやるようなことは当たり前にやっていて、あとプラスして何か自分で物を作るというようなことがありました。

――それは「まんが」ですか?

鬼頭:いや、紙工作ですね。当時はどちらかと言うと、紙を使って工作するようなことがすごく好きだったんです。

――どういう物を作っていたのですか?

鬼頭:小学校の子どもが作るようなものだから、そんなにたいした物ではないですよ。紙工作の本とかあるじゃないですか? ああいうものを見ながら、いろいろ応用して自分でいろんな物を作ったりしていました。

――まんがはまだ描いていなかったんですか?

鬼頭:僕が子供のころって、そういうものに対して寛容じゃない時代だったんですよ。まんがを読むとバカになるとまでは言わないですけど、今のように自由には読ませてもらえなかった。あんまり読めなかったですね。

――そんな先生が、まんがを描きはじめた時期ときっかけを教えてください。

鬼頭:いつだったのかな? たしか小学校高学年のころだったと思うんですが、友達のところで、貝塚ひろし先生(『父の魂』など)のまんがを読んで「カッコいいな」と思ったのがきっかけです。それを見て「まんがを読ませてもらえないのなら、自分で描きゃいいじゃないか」と......それはちょっと言いすぎかな(笑)。とにかく「オレも描いてみたいな」というふうに思ったんですよ。

――実際に描かれたまんがは、どういったお話だったんでしょう?

鬼頭:さすがに小学生の描くものなので、ストーリーとかは全く何もないですね。内容は、記憶に間違いがなければ、人間は1人も出てこなくて、全部メカだけで話が進むとか、そんなものだったと思います。

――先生らしいですね(笑)。......メカがやっぱり好きだったんですか?

鬼頭:好きでした。まんがを描くきっかけは貝塚ひろし先生でしたが、その後すぐに小沢さとる先生に影響を受けました。さらに、『宇宙戦艦ヤマト』(松本零士先生)ブームが来て、松本零士先生の洗礼をモロに受けているんですよ。「ヤマト」の劇場版をみたり、『戦場まんがシリーズ』を読み漁っていました。キャラクターにはあんまり興味がなくて、メカにばっかり目が行っていましたね。

――そのころにはもう、まんがが一番の趣味になっていたんですか?

鬼頭:どうですかね? ほかにプラモデル作りとかもやってましたけど、自分1人でできて、なおかつお金がかからないものはまんがくらいなので、その点は良かったですね。だから、普段は普通の遊びをしておいて、空き時間にまんがを描くという生活をしていました。授業時間とかね(笑)。

――描いたまんがを友達に見せたりはしていたんですか?

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鬼頭:中学校のころ、5~6人の仲間内でまんがを描いていて、その間で見せあったりしていましたね。中学生の3年間、ほぼ毎日「昨日はこれだけ描いてきたぞ、読め」ってのをやっていたんですよ。

――それはすごいですね!

鬼頭:僕はずっとそれが当たり前だと思っていたんですが、後でそうでないことを知りました。それが恵まれていたのか、ハメられていたのか、ちょっと分かんないですけど(笑)。なんにせよ、その3年間で、ほぼ足抜け不能になりましたね。

――描いていたのはやっぱりメカものですか?

鬼頭:いろいろですね。やっぱりSFというか、戦闘ものがメインにはなりますけど、それなりに広いジャンルのものを描いていましたよ。でも、さすがに中学生が恋愛ものを描くとバカにされるので、それだけはやりませんでした(笑)。

――女の子のキャラを描いただけで冷やかされそうですよね(笑)。ところで、そんな風に描きためた作品を投稿したりはしなかったんですか?

鬼頭:中学生のころは、ノートに鉛筆で描くというレベルだったので、投稿なんて考えてもいませんでしたね。最初の投稿はいつだったのかな......? たしか、高校1年生か2年生の頃だったと思います。初めてペンを使って漫画を描いて「サンデー」の賞に応募しました。ただ、内容はメタメタで、一次選考も通らなかったんじゃないかな。「サンデー」に一次選考の結果が載る前に原稿が返ってきちゃうくらいの......。「あれ? 何かの手違い?」みたいな(笑)。

――ちなみに、それはどういうまんがだったんですか?

鬼頭:第2次世界大戦を舞台にした戦闘機ものでした(笑)。

――やっぱりメカ(笑)? で、その後はどうだったんでしょうか?

鬼頭:高校のころは、2回か3回投稿したんですが、それも賞にはかすりもしなかったですね。賞をいただけたのは20歳くらいのころ、大学生の時ですね。

――受賞作(小学館IKKIコミックス『残暑 -鬼頭莫宏短編集-』に収録)はそれまでと何かが違っていたんでしょうか?

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鬼頭:意図的に変えたつもりはなかったんですが、結果だけ見ると、話の方向性が明らかに変わっているんですよね。20年も前の話なので、その時の自分が何を考えてそうしたのか思い出せないんですが......。ただ、当時、坂口尚先生(『石の花』など)が好きで、ああいう、人間ドラマをベースにした話を描きたいと思っていたのかもしれません。

――大学生になって、自身の人間の厚みみたいなもので出てきたところで、それが描けるようになり、入選につながったということでしょうか。

鬼頭:それだとありがたいんですけど。その後がメタメタだったので、なかなかそれが実証されないんですよね(笑)。その時だけがポンといっちゃったというか。

――その後はあまりうまくいかなかったのですか?

鬼頭:そうですね。編集さんが付いて学業をやりながら、ネームのやりとりみたいなものを何回かやったんですけど。うまくいきませんでした。編集さんが正しいアドバイスをしてくれているのに、妙に自分に自信があるものだから、それを受け入れられないんですよ。自分は正しいのだから、向こうが間違っているに違いないっていう......。今にして思うと、明らかに自分が間違っているんですけどね(苦笑)。

――その時期は長かったんですか?

鬼頭:実際の作品の発表年次を見ていただければ分かると思うんですが、長いですね。賞をいただいた後、普通に就職して3年間勤めました。実は当時の就職期間、H系の商業誌に原稿を載せてもらっていたんですが、まだ、まんがを取るか、サラリーマンをやるかを決心できなくて......。二足のわらじみたいな形で、なんとなく「3年間サラリーマンをやったら考えよう」と思っていたんですよ。

そして、実際に3年間やってみて、やっぱりまんがを本格的にやりたいなと思って、そのころ同人誌をきっかけにやり取りしていた少年チャンピオン(秋田書店)の編集さんを頼って上京しました。

で、上京してしばらくはぼーっと何もせずに過ごしていたんですが、少年チャンピオン編集部から当時連載されていた、きくち正太先生(『三四郎²』『おせん』など)を紹介していただき、アシスタントに入ることになったんです。

――アシスタントは何年ぐらいやられたのですか?

鬼頭:感覚的にはものすごく長くいた気がするんですが、実際には5年くらいだったと思います。

――きくち正太先生のところで学んだことはありましたか?

鬼頭:もちろん。絵の技術的にも相当アップしたと思います。アップしたといっても、自分は絵が下手なんで、「全然アップしてないじゃないか」と突っ込まれたら、それまでなんですけど(笑)。

あと、なにより、プロの仕事のクオリティの高さに感心しました。

圧倒的に細かくてきれいなんですよ。当た���前なんですが、アマチュアで1人で描いていたものとは次元が違いましたね。プロというのはここまで描くものなのかと思い知らされました。

あと、当時のきくち先生の仕事場で良かったのは、1ページを1人で担当する仕組みになっていたことですね。大きな仕事場だと、ベタ担当とか、トーン担当とか、背景担当とか、分担してやるのが普通らしいんですが、きくち先生のところは1人が1ページ丸ごとやらされるんです。

だから、そこにハトがいたら、ハトを描いたことがなくても描かなきゃいけない。川があれば、背景を描くのが苦手でも描かなきゃいけないんです。得意な人に描かせようとか、そういうことはないんですよ。

――それは鍛えられますよね。ちなみに、先生は何が苦手だったんですか。

鬼頭:僕は中途半端なレベルで全部できるタイプだったんじゃないかとは思います。ただ、ベタフラ(ベタフラッシュ)とか、そういうまんが特有のテクニックは苦手でしたね。逆にメカとかはほかの人よりも最初から上手だったと思いますよ。

――まんがの技術面以外にアシスタント経験から学んだことはありますか?

鬼頭:プロの仕事を通して、自分の絵に対する甘えとか、ほかの物事に対する甘えとか、そういうものを考え直すきっかけになりましたね。

あと、単純にまんがをつくっていくシステムを学びましたね。それこそ、人をどういうふうに使っていくかとか、給与体系とか。そういうのって、実際に見てみないと分からないんですよ。

――なるほど。では、そこからデビューするまでのお話をお伺いできますか?

鬼頭:アシスタントをしている最中に、少年チャンピオンに投稿した作品が賞をもらい、その後、連載用の企画を3本くらい出したんですけど、それが、どうしても編集長のところで通らないんです。そんなとき、友人から「鬼頭は少年チャンピオンっていう感じじゃないよな」と言われたんですよ。

それで「これは根本的に考え直さないといけないのか?」って思いまして、少年チャンピオンの編集さんに話を通してからアフタヌーン(講談社)に投稿してみたんです。

――それが『ヴァンデミエールの右手』(95年)だったんですね。

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鬼頭:はい。そうです。それの1番目です。幸い、不定期ながら続きも載せてもらえることになったので(『ヴァンデミエールの翼』としてシリーズ連載化)、3ヶ月に1本とかいうペースでアシスタントをしながら描いていました。

今、振り返ってみると、あのころが一番幸せなまんがの作り方をしていた時期かもしれません(笑)。

鬼頭莫宏プロフィール

鬼頭莫宏(きとうもひろ) 1966年、愛知県生まれ。

1987年、少年サンデーにて読み切り『残暑』でデビュー。1994年に『三丁目交差点 電信柱の上の彼女』が少年チャンピオン新人漫画賞入選。1995年、アフタヌーンで『ヴァンデミエールの右手』が四季賞準入選。同作品はその後、『ヴァンデミエールの翼』としてシリーズ連載化し、2年にわたり不定期掲載される。1998年には同誌において初連載『なるたる』をスタート。2004年からは『ぼくらの』で活動の場をIKKIに移す。『なるたる』『ぼくらの』は共にテレビアニメ化もされた。繊細で残酷な、ある意味で相反する要素を合わせ持つ作風が、コアなまんがファンを中心に高く評価されている。


「まんがのチカラ」次回予告
次回(2007年10月1日頃掲載予定)は、鬼頭先生の連載デビュー作『ヴァンデミエールの翼』から『なるたる』にいたる経緯と、その制作の裏側、そして、鬼頭先生の絵に対する思いをお届けします。お楽しみに!

2007年09月18日