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弘兼憲史先生 その2

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まんがに願いを

■ 幼少時代のまんがの思い出

---- 幼少時代に感銘を受けたまんがや、まんがの思い出話をお聞かせください。

弘兼:一番最初に読んだと記憶しているのは、手塚治虫先生の『ぼくの孫悟空』ですね。 それから講談社の絵本に、『リンカーン』などの偉人の物語があって。そこに描かれている すごくリアルなアメリカンイラストレーションと、産経新聞の『少年ケニヤ』という山川 惣治さんの絵物語をじーっと見ていました。その頃は母親に読んでもらっていた記憶があ りますね。

文字が読めるようになってからは、母に月刊誌を買い与えてもらっていました。 その頃はまんがを何冊も買えないから、友達と別々のまんがを買っては、回し読みしてま したね。次号がでるまでの一ヶ月、ぼろぼろになるまで毎日毎日、同じまんがを読んでい た。 そのうち『イガクリくん』や『赤胴鈴之助』を描くようになったんです。当時絵の先生に 個人レッスンを受けていて、そこで油絵を描いてました。でも、絵を習いながらまんがを 描いていたので、純粋絵画を描いているのに、絵がドンドンまんがっぽくなって、先生に 怒られ始めたんです。結局、絵の先生に反発して、絵よりもまんがが好きだからって絵を やめました。だから、小学校のときはまんが家になりたいと思っていましたね。

■ まんが家の夢から離れた中高時代

---- 幼少の頃から、ずっとまんが家を目指していた先生の、中学校、高校でのまんがとの 関わり方はいかがだったのでしょうか?

弘兼:中学に入ったときには、まんが家になるのはとても無理だと考えていました。まんが家って、世の中にそんなにいないじゃないですか。それで急に現実的になったんですね。今度は、当時流行していた『事件記者』というドラマの影響を受けて、新聞記者になろうって思ってました。

小学校のときに中学校受験をして、当時は珍しい中高一環教育の私立学校に行ったんです。そこからは、高校受験がないので、ただただ遊びほうけて、天国のような6年間でした。 その間も似顔絵やパラパラまんがは描いていましたね。教科書の隅に、人が走ってる姿や、棒高跳び、ハイジャンプをするところとかを描いてました。高校のときは、貸本に凝っていましてね。当時は、貸本まんがというのがあって、今のレンタルコミックとは違う、書店では売っていない貸本屋だけのまんががあったんです。そのときのスターは楳図かずおさん、水木しげるさん、白土三平さん、さいとう・たかをさんたちですよ。 この貸本まんがは、受験勉強の合間にもしょっちゅう借りて読んでいました。サンデー、マガジンなどの雑誌を読み始めたのは、大学に入ってからです。 大学受験をする際に、新聞記者になるためにはどうしたらいいのかを学校の先生に訊ねたら、「早稲田へ行け!」といわれて。ならば、と一所懸命勉強して、現役合格して早稲田に入りました。でも結局、ジャーナリズム研究会ではなくて、漫画研究会に入ってしまうんですけど(笑)

■ 料理とまんが、そしてワイン。様々な経験をした大学時代

---- 大学時代の印象的な思い出は?

弘兼:大学に入って4年間、ホテルニューオータニの配膳のアルバイトをしていました。当時の平均時給100円ぐらいだったのに、ホテルは250円。それに惹かれて始めたのですが、だんだんと料理への興味が芽生えまして。厨房に出入りする時に、パーティで残った料理から、キャビアやフォアグラの味をこっそり確かめたり。タイムライフ社から『世界の料理』というのが出ていて、読んで料理を研究しました。だから、まんがで駄目だったら料理の世界にいこう、と考えていましたね。料理人になる人って、きっと何より私みたいに、食材を吟味したり、調理したりすることが、心から楽しいと感じる人なんだと思います。

結局は、料理人でも新聞記者でもなく、まんが家になったわけですが、大学を出て、最初は普通のサラリーマンになりました。 

いよいよ学校を卒業する、というときの職業選択として、まんが家というのは本当に夢のまた夢。なりたいからといってすぐなれる職業ではないわけです。もちろん、子供のころからまんが家になりたいという、漠然とした希望は持っていましたが、これはプロ野球選手やサッカー選手、あるいは宇宙飛行士になりたいというのと同じレベルのもので、現実性はない。だから就職することがもっとも真っ当な道だと思ったんです。

それでも、何かまんがに近しい仕事はないものかと探したら、広告の仕事を思いついたんです。だから、当時広告に力を入れている企業やメーカーにターゲットを絞ったんです。広告代理店も考えたんですが、広告業界の試験はメーカーのあとに実施されていたので、最初に受けた松下電器から採用通知が来た時点で、他は受けずに松下電器に入社。3年3ヶ月ほど働きました。 別段、電機業界に入りたかったわけではなく、とにかく広告の仕事がしたかったんです。電機でなかったら、化粧品か洋酒の会社に入社していたかもしれません。そうしたら、その業界を舞台にした『島耕作シリーズ』が生まれていたかもしれませんね。

■ 27歳の転身。サラリーマンからまんが家へ。

---- まんがを描く上で、社会人経験を通じて得るものは、大いにあったと普段からおっしゃっていますが、サラリーマン時代のこと、まんがとの関わり合いについて、お話しくださいますか?

弘兼:私たちは全共闘世代でしたから。大学時代はホントに礼儀なんかあったもんじゃない。教授に対しても呼び捨てで、非常にぞんざいな口の聞き方をする。そんな何も知らない状態でいきなり社会に出ましたから、入社してとりあえず最初に知ったことといえば、タクシーのシートに序列があるということでした。本当に恥ずかしい話ですけど、そういうことは大学では教えてくれませんから。そういう基本的な社会人としての常識や礼儀作法を身につけられたのは大きいと思います。

  所属部署は希望どおり宣伝関係でした。そうすると、デザインスタジオのカメラマンやイラストレーター、デザイナーなど、社外との付き合いがあります。会社の連中と飲むよりも、彼らと一緒に飲むほうが多くなりました。酔っ払って彼らの下宿へ上がり込んで風呂にも入らず、翌日ぼさぼさ頭のまま会社に行く、なんてことをよくやってました。

ある日、私がそんな風に酔いつぶれてひっくり返った後、ふと夜中に目を覚ましてみると、 電気をつけて一所懸命まんがを描いているヤツがいる。

「なにしてるんだ?」って訊ねると、「いや今度、まんが賞に応募するんだ。締め切りが近いから」って。そいつ、水飲んで酔いを醒ましながら一所懸命にまんがを描いてるんですよ。その姿を見て「俺は何だかラクをしてるな」って、焦りました。クライアント(広告主)の立場っていうのは、業界の人たちといると非常に居心地がいいんですよ。向こうも気持ちよく持ち上げてくれるし。でもその時、「俺はここであぐらをかいていていいのだろうか?」という気がしたんです。やはり自分はこっち側(クライアント)に居るよりも、あっち側(クリエイター)でやる世界のほうが合っているなって思って。そこで辞めよう、と思ったんです。 

その前から、私は部内でも似顔絵やまんが描くのが上手かったので、「お前はプロのまんが家になったほうがいいんじゃないか」と、冗談交じりにいわれていました。 社のレクリエーションがあると歌集をつくるのですが、それに部長や課長、主任まで、全員の似顔絵を描いたり、表紙の絵を描いたり。部長を銭形平次なんかにカリカチュアライズしてね。結構評判よかったですよ。 器用なやつだという事は知れ渡っていたので、会社を「辞めます」っていった時も、そのほうがいいかもしれないと...止めてもらえなかった(笑) 直接に辞めるきっかけになったのは、ニューヨーク勤務の話が出たことです。ニューヨークに支社がありまして。2年ぐらい研修を兼ねて勤務する。25歳ぐらいのときだったんですが、話があったときは、正直迷ったんです。行ったら、まんが家デビューが遅れてしまうと。で、「実は、まんが家になりたいんです」と(笑)。ホントはちょっと、アメリカ暮らしもよかったのかな、なんて思ったりもしましたよ。

それで会社を辞めて、フリーで仕事をしながら27歳でまんが賞に入選して、28歳からは原稿料をいただき、晴れて職業まんが家になることができました��

2006年11月03日