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『萩尾望都先生』 その2

手塚先生の作品をきっかけに、まんが家を目指すようになった萩尾先生。しかし、まだまだまんがの情報が少なかった当時、プロデビューを果たすために、先生は大変な努力をされたそう。そして、そんな先生にとって、今の時代にはうらやましいものがあるとか。それはいったい何なのでしょうか・・・?

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「まんが」に対してどん欲だった中学生~同人時代

――前回は、小学生の頃、手塚治虫先生の作品などをお読みになっているうちに、「まんがを描くこと」に興味を持たれたというお話をお伺いしましたが、最初のころは、どういうお話を描かれていたんですか?

萩尾:小学生の作るお話ですから、今読んだばかりの少女まんがをそのまま写したようなものばかりでしたよ。お母さんが継母だとか、バレエをやっているんだけど怪我しちゃうとか、記憶喪失になるとか、交通事故に遭うとか。今で言うところの「冬のソナタ」全部入りみたいな(笑)。

――そこからどういう形でプロを目指していくのでしょう? まんが好きの女子小学生が、まんが家「萩尾望都」になっていくまでのお話を聞かせてください。

萩尾:中学生のときに、まんがを描いている友達ができたんですよ。私の家はずっとまんが禁止の家庭だったんですが、その子の家は、斜め向かいに貸本屋さんがあって、自由にまんがが読めたんです。それで、学校が終わると彼女の家に遊びに行って、貸本屋さんでまんがを借りて、ずっと読んでました。

そんなある日、楳図かずおさんの『夕暮れ少女』を読んでいたら、単行本の一番最後に原稿募集の告知が載っていたんですね。そして、それを見た友達が、「こういうのに自分たちの漫画を出してみないか」って言ってきたんですよ。

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ただ当時の私たちは、まんがの描き方なんて何もしりませんから、「紙の裏表に描かない方がいいらしいよ」とか、本当に見よう見まねで(笑)。そんなものですから、実際に応募しても、すぐに返却されてきちゃうんですよ。つまりは落選ってことです。

――その当時は、技術的な壁があったんですね。中学生だから仕方ないと思いますが……。

萩尾:その後しばらくして、生まれ育った大牟田(福岡県)から大阪に転校するんですけど、そこでできた友達が同人誌をやっている人たちだったんですよ。それで、技術的なことをたくさん教えてもらえるようになって……「萩尾さん、枠線は定規で引くんだよ」とか(笑)。

中でも、友人の友人で京都に住んでいる方が技術的に優れていましてね。初めてきちんと完成したまんがの「原画」を見せてもらったり、その方が地元でやっている同人誌を見に京都まで行ったりしました。

――それまでの自分とは明らかに技術の次元が違う人に出会ったわけですよね? 原画や同人誌を見たとき、どういうふうに思われましたか? やはりショックだったんでしょうか?

萩尾:ショックというより、自分の知らないことがたくさんあるということに、ただただ感心しましたね。ベタの塗り方とか、ホワイトの使い方とか、カケアミ(細い線を格子状に組み合わせたもの)とか……とにかく、全てが初めて知ることばかりでした。これは、情報収集に努めなくてはならないぞ、と思ったように覚えています。

――なるほど。当時はまんが入門書のようなものはなかったんですか?

萩尾:ちょうどその頃、石ノ森章太郎先生(『仮面ライダー』『サイボーグ009』など)が、『まんが家入門』という入門書を出されたのですよ。

――有名な本ですよね。多くのまんが家さんがバイブルだと言っています。

萩尾:私もそれを読みたくてしょうがなかったんですが、ものすごく高価な本だったんですよね。正確な価格は覚えていないんですが、当時の私の感覚で言うと、1年くらいお金を貯めないと買えない値段だったんですよ。それで、ずーっとお小遣いを貯めて、お年玉も貯めて……必要な本だと思ったのでとにかくがんばりました。

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そんな苦労をして手に入れた『まんが家入門』には、道具の話とか、ストーリーの作り方だけでなく、出版社への持ち込み方とか、プロのまんが家になるための様々な情報がしっかりと書かれていたのがよかったですね。そういうところがすごく参考になりました。

そのほか、手塚先生が書いた『マンガの描き方』とかも読みました。こちらには、まんが家はベレー帽をかぶるものであると書かれていたので、実際にベレー帽を買ってみたり(笑)。

――ベレー帽はともかく、大阪時代にスキルアップの原動力となるさまざまな人や本と出会えたんですね。

萩尾:そうですね。ただその後、高校になった頃に親の仕事の都合で大阪から大牟田に戻ることになってしまったんですよ。ところが、今度はそのタイミングで当時文通していた大牟田の友人が肉筆の回覧誌を立ち上げるということになりまして、それに参加させていただくことになりました。

――また引っ越しを契機に、新しい仲間が。

萩尾:そうですね。その友人は違う学校の子だったんですが、放課後、毎日その子の学校まで行って、美術室に入り浸ってました。

――美術室を使っていたんですか?

萩尾:同人誌のリーダーが、美術部の部長さんだったんですよ。ちなみに、その部長さんはまんが家の福山庸治さん(『マドモアゼル モーツァルト』など)なんですが、当時からものすごく絵が上手で、県展とかでもどんどん入選していましたね。

あと、私をグループに誘ってくれた友達は、その後上京して、手塚プロダクションで何年かアシスタントをやったあとデビューしています。原田千代子さん(現、はらだ蘭先生)という方です。

――そうそうたるメンバーですね。どうしても萩尾先生というと、「大泉サロン」(萩尾望都先生と竹宮惠子先生が住んでいた東京都練馬区大泉のアパートを中心とした、当時の女性まんが家の活動拠点とも言われていた集まりのこと。女性版トキワ荘とも)のイメージが強いのですが、上京以前から素晴らしい出会いに恵まれていたんですね。やはり、みなさん、プロになろうという意識が強かったんですか?

萩尾:まんが好きが集まると、どうすればデビューできるかって話になるんですよ。で、当時高校生でデビューした大牟田在住のまんが家に、平田真貴子さんという方がいたんですが、彼女が近所にお住まいだったんですね。聞けば、原田さんの友達の友達ということだったので、そのツテを頼って平田さんのところに「原画を見せてください」と押しかけて、プロのまんが家になる方法について聞いたりしました(笑)。

――先ほどの中学生の時に京都に行った話とか、かなり積極的ですよね。

萩尾:なにせ情報が少なかったものですから、ちょっとでも知ってそうな人がいたら、すぐに飛びついてましたね。特にまんがの原画を見たくて、「私の友達のお兄ちゃんが持っているよ」なんて話を聞いたら、拝み倒して見せてもらっていました。田舎の高校生はそうでもしないと原画を見るチャンスなんてなかったんですよ。

――今ですと、日本中どこにいても、いろいろな情報が比較的簡単に手に入りますよね。先生にしてみたら、とてもうらやましいんじゃないですか?

萩尾:情報があるのはうらやましいですね。それに、今はコミケがあるでしょう? あそこは、パロディも多いですけど、オリジナルを描いている方もたくさんいらっしゃいますよね。ああいうのが私の時代にもあったら、そっちに走っていたかもしれない(笑)。でも当時は、まんがを描き続けようと思ったら出版社しか場所がなかったんです。

――やはり、先生の時代はまんが家=出版社で描く、だったんですか?

萩尾:そうですね。それも雑誌連載ですね。単行本がまだ主流の時代ではなかったので、雑誌に載せてもらうしか、作品をみんなに見てもらう方法がなかったんです。友達もみんなそれを目指していて、お互い情報交換してました。

――そんな先生にチャンスが訪れたときのことを教えてください。

萩尾:高校卒業後、先ほど話した平田さんが、私を講談社に紹介してくれたんです。それで、それまでに描いた作品をいくつか持って、1月の中旬に東京のなかよしの編集部まで行ってきました。

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その時はコミカルな話ばかりを持って行ったんですが、編集さんが「こういうかわいらしい話だったら、いつでも持っていらっしゃい」って言ってくれたんですね。それで、具体的にいつまでに描けるかを聞かれたんですが、つい「1月中に送ります!」と口走ってしまったんですよ(笑)。

今にして思うと、無謀すぎるスケジュールだったんですが、それで描いた作品が『ルルとミミ』で、増刊号に載せてもらうことになりました。

――ついに憧れの出版社デビューですね! そのときの感想を教えてください。

萩尾:実はちょっと複雑な気持ちだったんですよ。というのも、やっぱりスケジュール的に無理があって、最後の3日間は徹夜で描くことになってしまったんですね。当時通っていたデザイン学校もさぼって。それで、後半は線がヨレヨレになっちゃった。でも、もう描き直している時間がないので「どうもすいません。ものすごく絵が荒れてしまいました。次はちゃんと描きますから」ってお詫びの手紙を付けて送ったんですね(苦笑)。

――編集部の反応はどうだったんですか?

萩尾:幸い、次の作品を描くチャンスをすぐにもらえて、次の増刊号に『すてきな魔法』という作品を掲載してもらえました。

――それは良かった(笑)。ところで、先生がまんがを描くことに関して、家族の反応はどうだったんですか?

萩尾:両親は私がまんがを描くことについては、ずっと反対していましたね。ただ、高校生活の終わり頃、別冊マーガレットに投稿した作品が2回くらい入選して、何千円かの賞金をいただいたことがあるんですよ。うちはもらったもの��全部親に見せるルールがあったので、「投稿したらお金をもらいました」って報告したんですね。

そうしたら母親はすごく不思議な顔をしましてね。「え? あなたのまんがってお金になるの?」なんて言われました。ただ、そういったことがあったのと、高校卒業後はデザインの学校に通っていたので、それ以降は、あまり文句を言われなくなりましたね。

――先生にはお姉さん、妹さん、弟さんがいらっしゃるんですよね? そちらの反応はいかがでしたか? 家族にまんが家がいたら、私なんかは興奮しちゃうと思うんですが。

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萩尾:いや、特に何もなかったですね。うちの姉妹弟はみんなマイペースで、まんがを読みはするけど、そんなに関心はないみたいな感じだったんですよ。だから、私は家族の中の「変な人」って位置づけだったように思います。

萩尾望都プロフィール

萩尾望都(はぎおもと) 1949年、福岡県生まれ

1970年代を中心に活躍を始め、現在の少女まんがスタイルを確立したとされる、通称「24年組」作家の象徴的存在。1969年、なかよしにおいて『ルルとミミ』でデビュー後、1972年、別冊少女コミック誌上で『ポーの一族』を発表。その圧倒的な構成力の高さから、女性だけでなく男性のファンも数多く獲得した。『トーマの心臓』『メッシュ』など、代表作多数。現在も、フラワーズ誌上において新作を継続して発表。


「まんがのチカラ」次回予告
萩尾先生は、デビュー後『ポーの一族』をはじめ『トーマの心臓』、『メッシュ』などのヒットまんがを立て続けに発表し、さらに現在においても第一線で活躍されています。傑作を生み出し続ける先生の"原動力"とはいったい何なのでしょうか。各作品にまつわるエピソードを交えつつ、その"原動力"の正体が明らかになります。次回最終回は、2008年4月21日掲載予定。お見逃しなく!

2008年04月14日