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『楳図かずお先生』 その3

前回、作品作りにおいて大切な「オリジナリティ」についてお話くださった楳図先生。その「オリジナリティ」を追求し作品を生み出すことの苦しさを、なんと小学生の頃には体験していたそう。今回は、そんな先生がまんがに目覚め、プロデビューに至るまでの道のりをお伺いしました。

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小学生時代から自分の絵柄を模索し、苦悩

――今回は、先生がまんが家になるまでのお話をお伺いしたいと思います。まず、先生の出身地について教えてください。

楳図:和歌山県の北方、真言宗の聖地、高野山で有名な高野町で生まれました。私が怖いまんがばかり描くのは、このお寺ばかりの町で生まれたことが理由のひとつなのかもしれませんね。

――高野町で少年時代を過ごされたんですか?

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楳図:いいえ。高野町へは、出産のために短期的に出てきていただけなので、生後3カ月で、父と母がもともと暮らしていた吉野熊野(三重県、奈良県、和歌山県の三県にまたがる山岳地帯)の山中に戻りました。その後、小学校に上がる頃までは吉野熊野の村々を転々としていましたね。

――どんな子ども時代を送られていたんでしょうか?

楳図:父親が小学校の先生だったんですが、赴任先が坂上次郎さんの歌『学校の先生』に出てくるような全学年まとめて1クラスという小さな学校だったんですよ。日本には、へき地の等級が5段階あるそうなんですが、その5段階目というようなところで(笑)。

そんな不便な村に住んでいたものですから、遊ぶ場所がないんですよね。ですので、気がついたら絵を描いてばかりいました。いつも紙と鉛筆を持ち歩いてた記憶がありますね。

――特にきっかけがあって描き始めたのではなく、いつの間にか描き始めていたんですね。

楳図:そうですね。ただ、これは母親から聞いた話なんですが、僕が生まれて7カ月くらいの頃に、好奇心から紙と鉛筆を持たせて丸の書き方を教えたらちゃんと描けたらしいんですよ。それで母親がおもしろがって、花とか、より複雑な絵の描き方を教えていったということはあったそうです。僕は全然覚えていないんですけどね(笑)。

――そんなに小さい頃から才能を発揮していたんですね! そこから「まんが」に興味を持ち始めたのはいつ頃なんですか?

楳図:小学4年生の頃、なぜか急にストーリーのあるものに興味をもつようになり、まんがや読み物などを読みあさるようになったんです。その頃には、ようやく町のつく場所、吉野郡五條町(今の五條市)に引っ越していたので、近所の貸本屋さんに通って、片っ端から借りまくるという生活をしていました。

――まんがに限らず、絵物語や小説なども含めて、ってことですね。そこから「まんが」を選んだ理由を教えてください。

楳図:小学5年生の時、八幡宮のお祭りの露店で、手塚治虫先生の『新宝島』を買ったのがきっかけですね。立ち読みなんかできないので、表紙を見て直感的に面白そうだと思ったんでしょう。何か感じるものがあったんだと思います。

それを読んでものすごく感動して、それで「プロのまんが家になろう!」って思いました。その瞬間がプロを目指した第一歩目ですね。

――手塚先生がきっかけだったんですね! ちなみに、手塚作品のどういったところに惹かれたんですか?

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楳図:今でこそ当たり前ですが、当時は「現実」を超えてしまうようなストーリーってあんまりなかったんですよ。ところが手塚先生の作品には、ロボットは出てくるわ、火星人は出てくるわ、悪魔は出てくるわって、とにかくあり得ないことだらけ。僕も含め、当時の子どもたちにとっては、そういう手塚先生の現実を越えたシチュエーションがたまらなく面白かったんだと思います。

――先生もそれを読んで、自分もまんが家になろうと。

楳図:そうですね。ところが、そういうスタートだったものだから、気がつくと手塚先生と同じようなものを描いているんですよ(苦笑)。

――そうなってしまいがちですよね(笑)。

楳図:でも僕は中学生になったらデビューしたいくらいのことを考えていたので、それがすごく苦痛だったんですよ。これではいけないって悩み始めてしまって……小学生の頃から産みの苦しみに悩まされるようになってしまいました。

どうすれば自分の絵柄が見つかるんだろうと、いろいろ試行錯誤してはみたんですが、なかなか分からなくて……そうこうしているうちに中学生になってしまいました。

――とんでもない小学生ですよね。でも、「オリジナリティ」にこだわる楳図先生ならではのエピソードだと思います。

楳図:ただ、先も言ったように中学生のうちにデビューしたいという気持ちが強かったものですから、絵柄に悩みつつも、新聞や雑誌に投稿はしていたんです。そして、それが掲載されていく中で、いろいろなまんがサークルに誘われて参加するようになっていくんですよ。

その中で、西岡務さんという人に出会ったのが大きな転機になったのかな。彼は実家が画廊を経営していたということもあって、絵柄がまんが的ではなく、とても絵画的だったんですね。当時の僕はそれにものすごく刺激を受けた記憶があります。

それに子どもの頃に買い与えられていた『キンダーブック』(フレーベル館刊行の月刊保育絵本)の武井武雄さん、初山滋さんの影響も加わるようなかたちで、徐々に自分の絵柄というものが定まっていきました。

――脱・手塚治虫先生が叶ったわけですね。

森の兄妹

楳図:結果としては、自然とそうなっていきましたね。当時描いた『森の兄妹』という作品は僕の原点ですね。今でもそう思います。

ですから、これはまだどなたにもお見せしていないんですけど、今度できる僕の新しいおうちの南側に、その絵を模した大きなステンドグラスを配置しているんですよ。高校の頃に出版した『森の兄妹』の単行本(完全復刻版が小学館クリエイティブから発売中)の裏表紙がなぜかステンドグラスなんですけど、それをそのまま実際のステンドグラスにしてもらいました。

――それはまだメディア未公開ですよね?

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楳図:シマシマの模様ばかりが話題になりますが(笑)、本当に一番のみどころはそのステンドグラスなんですよ。今後、テレビなどで、皆さんにも見ていただく機会があると思いますので、楽しみにしていてくださいね。

楳図かずおプロフィール

楳図かずお(うめずかずお) 1936年、和歌山県生まれ

高校卒業後の1955年、中学生時代に描いた『森の兄妹』で貸本まんが家デビュー。その後、1960年代に独自の「恐怖まんが」というカテゴリーを確立し、『赤んぼ少女』(1967年/少女フレンド)や『おろち』(1969年~/週刊少年サンデー)は映画化もされた。「恐怖まんが」のほか、SF作品も積極的に発表しており、『漂流教室』(1972年~/少年サンデー)や、『わたしは真悟』(1982年~/ビッグコミックスピリッツ)、『14歳』(1990年~/ビッグコミックスピリッツ)などが人気を博した。1976年~1981年まで週刊少年サンデー誌上にて連載されたギャグまんが『まことちゃん』も人気が高い。


「まんがのチカラ」次回予告
再出版や映画化など、活発な動きを見せる先生の作品。これまでに多くのファンを獲得し、若い世代のファンも増え続けています。そして若い世代のファンといえば大人気タレントの中川翔子さん。もしかして楳図先生の監督映画に出演なんて…。そんな気になるところを、こっそりと教えていただいた次回が楳図先生編最終回���2008年9月29日掲載予定。お見逃し無く!

2008年09月22日