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『三田紀房先生』 その4

デビュー当時「あまり期待されていないポジション」のまんが家だったという三田紀房先生。今回はそんな状況から、いかにしてヒット作を量産し、人気作家の座に駆け上がったか、「ヒット作家・三田紀房」誕生秘話を語っていただきました。

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週刊連載2本同時進行という大決断

---- 『クロカン』の連載中にヤングマガジンで始まった、もう1つの高校野球まんが『甲子園へ行こう!』は、どのようにしてスタートしたんですか?

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三田:僕は元々、講談社からデビューして、アフタヌーンで連載させてもらったりしていました。その後、いろいろあって講談社とは疎遠になっていたんですが、ある時、当時の担当編集者から何年かぶりに電話がかかってきて「会おう」って誘われたんですよ。

で、その時、一緒についてきた新人編集者が『クロカン』の大ファンで、高校野球まんがをウチでもやってほしいって言うんですね。ちょうど、別冊ヤングマガジンが創刊するから、月に1本描いて欲しいと。

それが『甲子園へ行こう!』だったんですが、半年くらい描いていたら、本誌の編集長がいきなりタクシーでやってきたんです。そして吉祥寺のフグ屋にむりやり連れて行かれて、「三田さん、うちで週刊連載してくれないか!」って(笑)。

---- すでに『クロカン』が週刊連載している中で、それは厳しいですね。

三田:そうなんですよ。当時は『クロカン』に、週5日たっぷりかかっていたので、とてもじゃないけど、今の体制では無理だと。

でも、ヤングマガジンと言えば、ステータスじゃないですか。野球で言えば、楽天から巨人に行くようなもんです(笑)。その巨人が、今、自分を欲しいと言っている。ここで断わったら、次のチャンスはないかもしれない。来年になったら新戦力が入ってしまうかも知れませんからね。

それで、その場で思い切って「やります!」って言ったんです。どうやるかは、そこから考えることにしました。

---- 当時は、どれくらいの規模で制作されていたんですか?

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三田:4人ですね。でも、当然それじゃ足りませんから、片っ端からフリーのアシスタントさんに声をかけて、仕事場の台所もつぶして机入れて......。幸い、当時の仕事場がまんが家の多いエリアだったので、何とか手伝ってくれる人は見つかりましたが......かなり無理矢理でしたね。

---- ただでさえキツい週刊連載を2本同時進行するというのは凄いですよね。月刊連載とかでゆっくり描きたいとか、そういうふうに考えたりはしないんですか?

三田:週刊連載って、そんなにやれるチャンスはないじゃないですか。昔、ある有名なまんが家さんと飲んだ時も「まんがは週刊なんだよ」って言われたことがあります。週刊をやってこそまんが家なんだって。

----週刊連載の醍醐味って何なんでしょう?

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三田:何よりも、自分の作品が雑誌の形ですぐに読めることが大きいですね。生原稿の時には分からなかった事が、すぐに印刷されて雑誌形となって分かったりする。

実のところ、まんがを描いている時は、勢いで描いている面もあるので、かなり感覚的に作業しているんですよね。印刷されたものを読むと、描いたものをしっかり客観視できますから、自分が何を伝えたかったのか、それがちゃんと伝わっているのかを、再確認できるんです。

月刊だとそこで大きなタイムラグが発生してしまう。

---- 描いたものを後で読み返すんじゃダメなんですか?

三田:横の広告とか欄外の記事とか、そういうのが意外と大事なんですよ。ああいうものが入ることで、まんがが「商品化」されるんです。

(第5回「三田紀房(後編)」 〜二転三転?『ドラゴン桜』誕生秘話〜に続く)

三田紀房プロフィール

三田紀房(みたのりふさ) 1958年、岩手県生まれ。

明治大学政治経済学部卒業後、一般企業に就職。直後、家庭の事情で退社し、家業の衣料店を兄と共同経営するが上手く行かず、賞金目当てでまんが家を志す。1988年、講談社「モーニング」で新人賞デビュー(当時30歳)。その後、高校野球まんが『クロカン』『甲子園へ行こう!』で注目を集め、2005年、大学受験をテーマにした『ドラゴン桜』で第29回講談社漫画賞、平成17年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞している。


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2007年03月27日